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暗黙知をナレッジグラフに 2007年問題から

Part 6 / 9 RAGとは 2017〜2026年の手法9段階

GraphRAG は、検索を良くするための技術でした。似た断片を集めるだけでは届かない問いに、索引の側で関係を持たせて答える。この章で扱うのは、同じナレッジグラフが日本の製造業に入っていくときの、別の理由です。熟練者が辞めると、その人の頭にあった判断が理由ごと消える。こちらは組織側の理由です。

日本の製造業は、この問題を2007年問題として20年近く抱えてきました。それでも、2026年5月の労働政策研究・研修機構 (JILPT) の調査で、技能継承が「うまくいっている」と答えた会社は1.9%です。

LLM が入って変わったのは、工程の半分です。文書や図面をナレッジグラフにする工程は、安くなったと言える材料があります (LazyGraphRAG の索引コストは初代 GraphRAG の0.1%)。2025年からは、図面をグラフにして使う国内の発表も続いています。ところが、その手前にある「熟練者の頭の中を言葉にする」工程は、まだ人と時間を食います。LLM でこの工程の工数が何%減ったか、という定量は、国内の一次資料では見つかりませんでした。

2007年問題から20年

この章では、GraphRAG の章と同じ言葉を使います。ナレッジグラフは物事と物事の関係を点と線で表したデータで、点をノード、線をエッジと呼びます。

2005年6月の平成16年度ものづくり白書 (経済産業省・厚生労働省・文部科学省の3省が共同でまとめる年次報告) は、製造業の就業者に占める55歳以上の割合が24.5%と全産業の25.6%に近づいたと書き、団塊の世代の退職に伴う技能継承を課題に挙げました (厚生労働省 2005年6月3日)。翌年の白書では「2007年問題」への危機感が高まっているとしています (2006年6月9日)。

同じころの化学プラントについては、2008年の報告が2つの調査を紹介しています (倉恒, 計測と制御 47(4), 2008)。1つは2005年に18社31事業所から45件の回答を集めた調査で、80%が「5〜10年以内に大きな世代交代がある」と答えました。もう1つは、ある化学工場のバッチプラントの運転員へのアンケートで、運転員の多くが「運転ノウハウとは何か」という問いに答えられなかったとあります。知識が消えそうだと分かっていても、何が消えるのかを本人も言えない。この章の最後まで残る問題が、もう出ています。

それから20年たった2026年5月27日、JILPT が「ものづくり産業における人材確保・定着と技能継承に関する調査」を公表しました (JILPT)。機械・金属系を中心とする製造業11業種の、従業員30人以上の企業2万社に送り、4,342社が答えた調査です (2025年11月25日〜12月22日)。

2005年から2026年までの年表と JILPT 2026 の数字の図。左の年表は、2005年6月に厚生労働省のものづくり白書が製造業就業者の55歳以上の割合24.5%を示し団塊の世代退職に伴う技能継承を課題に挙げたこと、2006年6月の白書で2007年問題への危機感の高まり、2008年の報告が紹介した2つの調査 (2005年の化学プラント45件の調査で80%が5〜10年以内の世代交代を予想、別の化学工場の運転員アンケートで多くが運転ノウハウとは何かに答えられなかった)、2026年5月の JILPT 調査。右は JILPT 2026 の数字で、技能継承が必要と考える4,262社のうち「うまくいっている」1.9%、「ややうまくいっている」を足して33.3%、将来の技能継承に不安がある85.5%、不安がある3,641社が挙げた中身の1位は熟練技能者の高齢化・退職63.0%。出典は厚生労働省の報道発表、計測と制御47(4)、JILPT 2026年5月27日の報道発表

技能継承が必要と考える4,262社のうち、「うまくいっている」は1.9%、「ややうまくいっている」を足して33.3%。同じ4,262社の85.5% (「不安がある」23.7%と「やや不安がある」61.8%) が将来に不安を感じていて、不安がある3,641社が挙げた中身の1位は「熟練技能者の高齢化・退職」の63.0%でした。20年前に名前が付いた問題が、ほぼそのまま残っています。

LLM 以前: 判断の構造を手で書く

ナレッジグラフで熟練者の知識を残す試みは、LLM よりずっと前からあります。よく知られた例が、住友電気工業の生産技術部と大阪大学の溝口・來村研究室の取り組みです (來村ら, 人工知能学会全国大会 2003)。

彼らが書いたのは「機能分解木」(論文の用語では機能達成方式木) です。装置の機能を「何を達成するか (機能)」と「どうやって達成するか (方式)」に分け、交互に木にします。論文の例では、「溶接する」は一見すると機能ですが、「溶かす」というやり方を含んでいます。そこで「一体化する」という機能と「溶融」という方式に分け、同じ一体化を達成する別の方式として「ボルトナット」を並べます。こうしておくと、なぜこの方式を選び、他の方式をなぜ選ばなかったか、という設計の判断が木の上に残ります。

機能分解木の模式図。上に機能「一体化する」(何を達成するか) があり、その下に方式が OR で2つぶら下がる。1つは「溶融」方式で、その下に部分機能が並ぶ。もう1つは「ボルトナット」方式。左に、元の記述「溶接する」は機能とやり方が混ざっているので「一体化する」と「溶融」に分ける、と書いてある。右に、住友電工での個別事例として、特許申請の資料作成が3〜4週間から1週間、外観検査の画像処理開発が通常2週間程度から新人で3日、研磨装置の異物不良が4〜5ヶ月未解決から2〜3週間で解決。下に、木は技術者が手で書いた (当初は PowerPoint)、と注記がある。出典は來村ら 人工知能学会全国大会 2003

効果も具体的に書かれています。技術者と弁理士の間で3〜4週間かかっていた特許申請の資料作成が1週間になり、通常2週間程度かかる外観検査の画像処理の開発を、ベテランの方式知識を参照した新人が3日で終えました。研磨装置で4〜5ヶ月解決しなかった異物の不良は、同じ技術者が機能の構造を書き直してから2〜3週間で原因に届いた、とあります。どれも個別の事例です。

この木は人が手で書いていました。論文自身、当初は PowerPoint で記述していたこと、初心者が書いたモデルは枠組みの制約を満たしていないことが多いことを、課題として挙げています。良い構造を作るには、構造の書き方を知っている人が、熟練者の話を聞いて書く必要がありました。

グラフが返すもの: 資料の場所か、判断の理由か

住友電工の木のように判断の構造まで書いたグラフでも、LLM を組み込まない検索で利用者に返るのは、ノードとそこにつながる資料です。グラフをたどって分かるのは、どこに何が書いてあるか、つまり資料の場所です。「この状況なら、なぜこうするか」は、返ってきた資料を読んだ人が組み立てていました。グラフの作り方をいくら磨いても、この分担は変わりません。

LLM が入ると、この分担が変わる可能性があります。グラフの上の関係をたどり、条件と理由をつないで、文章で返す。資料の場所を返す仕組みから、判断の理由を返す仕組みに変わる、という見方です。名前の似た DecisionRAG は別の話です (DecisionRAGとは 2026年の新検索手法)。

グラフが返すものの対比図。左は LLM を組み込まない検索で、質問に対してグラフをたどり、ノードとそこにつながる資料を返す。返るのは資料の場所 (どこに何が書いてあるか) で、判断の理由は資料を読んだ人が組み立てる。右は LLM を組み込んだ場合で、グラフの関係をたどり、条件と理由をつないで、判断の理由 (この状況ならなぜこうするか) を文章で返す。ただし返せるのはグラフに判断の構造が載っているときだけ。下に、どちらもグラフに載っているのは言葉になった知識だけ、と注記がある

ただし、判断の理由を返せるかどうかは、グラフに判断の構造が載っているかで決まります。載っていない判断は、LLM がどれだけ上手につないでも出てきません。ここが次の2つの節の分かれ目です。

日本では: LLM 以後、文書からグラフを作る (2025〜26年)

2025年から、国内の大手が、文書や図面をナレッジグラフにして生成 AI に使う発表を続けています。どうやってグラフに変換したかは、多くの発表で書かれていません。

ダイキン工業 × 日立製作所 (2025年4月22日、日立のニュースリリース) は、工場設備の図面を「生成 AI が読み取ることができる形」のナレッジグラフに変換し、保全記録と、日立の設備故障の原因分析の手順 (STAMP などに基づく) と合わせて、故障診断の AI エージェントを作りました。変換の方法は書かれていません。事前の実証で、このエージェントが10秒以内に90%以上の精度で故障の原因と対策を答えたとしています。グラフを作る工程の数字ではなく、できたグラフを使って診断する工程の数字です。評価の条件は注に書かれていて、5種類の設備について各5件の故障を推定させ、熟練の保全技術者2名が正しさを5段階で評価したものです。25件を2名で採点した結果なので、件数としては小さい評価です。

ダイキンと日立の故障診断 AI エージェントの構成図。設備の図面をナレッジグラフに変換し、保全記録、STAMP などに基づく原因分析の手順と合わせて、故障診断の AI エージェントに渡す。エージェントは保全技術者に原因と対策を返す。下段は評価で、事前の実証で10秒以内・精度90%以上。5種類の設備×各5件の故障を推定させ、熟練の保全技術者2名が正しさを5段階で評価したもの。グラフを作る工程ではなく診断の数字で、企業の自社評価で件数は小さい。堺製作所臨海工場で2025年9月まで試験運用。出典は日立製作所 2025年4月22日のニュースリリース

三菱ケミカル × 日立 (2025年12月24日、ニュースリリース) は、同じ型を化学プラントに広げ、配管計装図 (P&ID) や設備図面を「日立独自の技術で」ナレッジグラフにします。共同検証の段階で、数字は出ていません。

ジヤトコ × ストックマーク (2025年7月10日、ストックマークのお知らせ) は、図表の多い設計文書からナレッジグラフを作るサービスの採用です。ジヤトコ側のコメントに、ベクトル検索からグラフに移った理由が書かれています。

ジヤトコでは、以前からベクトル検索を用いたRAGの活用を試みていましたが、単語の類似度だけでは、図や表を多用する私たちの設計文書の複雑な文脈をAIに理解させることは困難でした。

ベクトル検索の RAG を試して足りなかったから、グラフに進んだ、という順番です。数字は出ていません。

日立ソリューションズ (2026年3月4日、ニュースリリース) の設備管理向けアプリケーションは、設備情報と熟練者の知見、点検関連書類の関係を定義して管理し、キーワードが一致するかに加えて、関係を踏まえて答える設計です。熟練者の知見は、ヒアリングの音声データをもとに日立ソリューションズが整理・明文化します。知識を継続的に更新する機能は、今後の拡充として挙げられています。

NTT データ (2026年2月9日、DATA INSIGHT) は、熟練者に AI がインタビューする「インタビューエージェント」を開発中です。関連文書を工程の木に分解し、工程ごとに4つの観点 (視覚・聴覚、動作、コミュニケーション、判断) で最初の質問を作ります。答えの深さを見て、追加の質問を重ねます。川崎重工業の設計業務で、熟練設計者の暗黙知を若手に伝える取り組みに使われています。ナレッジグラフを生成する AI「KANO」との連携も始めたとしています。

LLM 以後の国内事例を並べた表の図。列は、組織と時期、何をグラフや構造にしたか、熟練者の知見の入れ方、公表された数字。ダイキンと日立 (2025年4月) は設備図面をナレッジグラフにし、保全記録と原因分析の手順を合わせ、10秒以内・精度90%以上 (5設備×各5件、熟練者2名が5段階評価)。三菱ケミカルと日立 (2025年12月) は P&ID と設備図面をナレッジグラフにし、数字なし (共同検証)。ジヤトコとストックマーク (2025年7月) は図表の多い設計文書をナレッジグラフにし、ベクトル検索の RAG では足りなかったと証言、数字なし。日立ソリューションズ (2026年3月) は設備情報・熟練者の知見・点検書類の関係を定義し、知見はヒアリング音声から人が明文化、数字なし。NTT データ (2026年2月、川崎重工業の設計業務で実施中) は AI のインタビューで熟練者から聞き出し、数字なし。下に、公表された数字はできたグラフを使う故障診断のもの (ダイキンと日立) だけで、グラフを作る工程の費用にも、人から聞き出す工程の工数にも数字はない、と注記がある。出典は各社のニュースリリース

並べると、数字の出方に偏りがあります。数字が出ているのは、できたグラフを使って故障を診断する段階 (ダイキンと日立) だけです。図面や文書からグラフを作る工程の費用も、熟練者から聞き出す工程の工数も、どの発表にも数字がありません。聞き出す工程は、人が整理するか (日立ソリューションズ)、AI のインタビューを試している段階 (NTT データ) です。

文書からグラフは安くなった。人から言葉は、まだ高い

熟練者の知識がナレッジグラフになるまでには、2つの工程があります。

  1. 人から言葉へ: 熟練者の頭の中にある判断を、文書や図にする
  2. 言葉からグラフへ: 文書や図から、物事と関係を取り出してグラフにする

LLM で安くなったのは2つ目です。根拠として一番はっきりしているのは、GraphRAG の章で見た LazyGraphRAG で、索引コストが初代 GraphRAG の0.1%になったという Microsoft Research の報告です (自社評価)。住友電工の時代に人が手で書いていた関係のうち、文書に書かれている部分は、今は LLM が抜き出せます。

安いと言っても、人が手で書くのに比べての話です。私の予備測定 (exp048) では、2,382個のチャンクから9Bのモデルで関係を抜き出すのに約3.2時間かかりました。同じチャンクの埋め込みは43秒です。

1つ目の工程の重さは、日立産業制御ソリューションズの発表によく出ています (日立産業制御ソリューションズ 2025年6月24日)。2022年から、ファシリテータを中心に熟練者の集団がディスカッションを重ね、熟練者が当たり前だと思っている知識と設計の思考の手順を表に出しました。かかった時間は1業務分野あたり約半年で、上下水など7つの分野で体系化しています。まとめた形はグラフでもありません。思考の手順を書いたプレイブックと、標準ドキュメントです。目標は、2027年度に制御系設計業務の生産効率を2024年度比で30%改善することとしています。

熟練者の知識がナレッジグラフになるまでの2つの工程の図。左から、熟練者の頭の中、文書や図、ナレッジグラフの3つが並ぶ。1つ目の工程は人から言葉へで、まだ高い。例として、日立産業制御ソリューションズは熟練者の集団のディスカッションで1業務分野あたり約半年 (7分野)。LLM で聞き出しの工数が何%減ったかの定量は国内の一次資料に見つからない。2つ目の工程は言葉からグラフへで、LLM で安くなった。例として、LazyGraphRAG の索引コストは初代 GraphRAG の0.1% (Microsoft Research の自社評価)、2003年の住友電工では人が手で書いていた関係のうち文書に書かれた部分は今は LLM が抜き出せる。出典は日立産業制御ソリューションズ 2025年6月24日、Microsoft Research 2024年11月25日、來村ら 2003

LLM がこの1つ目の工程を軽くする試みはあります。NTT データのインタビューエージェントも、日立ソリューションズのヒアリング音声からの明文化も、その方向です。日立の大みか事業所はグラフを使わず、熟練者が資料を探すときの検索の仕方をプロンプトに組み込みました。100件を超える Q&A も整え、2024年10月から2025年3月の実証で検索時間を約9割減らしたと発表しています (日立 2025年6月26日)。ただしこれは探す時間の数字で、聞き出す時間の数字ではありません。

LLM を使ったことで、熟練者から聞き出す工数がどれだけ減ったか。この数字は、私が探した範囲の国内の一次資料にはありませんでした。文書からグラフの工程がこれだけ数字を出しているのと比べると、空白の大きさが目立ちます。

残っている3つの壁

JILPT の調査は、なぜ1つ目の工程が重いのかにも答えています。

技能継承の壁を数字で示した横棒グラフ。上は技能継承がうまくいっていない2,797社が挙げた理由で、若年従業員を確保できない62.5%、時間的な余裕がない50.0%。下はデジタル技術を技能継承に使う943社が挙げた課題で、デジタル技術を活用できる人材の不足64.2%、ノウハウの不足49.3%、コストが負担46.8%、時間的余裕がない41.7%、伝える側 (熟練者) の協力を得るのが難しい15.7%。右に、残る3つの壁として、時間がない、作った知識が古くなる、言葉にできない、が並ぶ。出典は JILPT 2026年5月27日の報道発表、JUAS 2002年のナレッジマネジメント報告、倉恒 2008

1つ目は時間です。技能継承がうまくいっていない2,797社が挙げた理由で、若年従業員を確保できない (62.5%) に次いで多いのが、時間的な余裕がない (50.0%) でした。誰の時間かまでは調査に書かれていません。デジタル技術を技能継承に使う943社が挙げた課題でも、上位はデジタル技術を活用できる人材の不足 (64.2%)、ノウハウの不足 (49.3%)、コストの負担 (46.8%)、時間的余裕がない (41.7%) です。伝える側の協力を得るのが難しい、は15.7%にとどまります。熟練者が非協力的だから進まない、とは読みにくい数字です。人と時間と費用が足りないから進まないのだ、と私は読んでいます。

2つ目は古くなることです。日本情報システム・ユーザー協会 (JUAS) の2002年のナレッジマネジメントの報告書は、集めた知識の陳腐化と、元になるデータがそもそも集まらないことを課題に挙げています (JUAS 2002)。設備や材料が変われば判断も変わります。日立ソリューションズが継続的な更新を「今後の拡充」として残しているのも、この壁がまだ越えられていないことを示しています。

3つ目は、言葉にできないことです。2008年の報告が紹介した化学工場の運転員アンケートで、運転員の多くが「運転ノウハウとは何か」に答えられなかったように、熟練者自身が自分の判断を説明できない部分があります。ナレッジグラフに載せられるのは、言葉になった知識だけです。LLM はグラフを作るのも読むのも上手になりましたが、言葉になっていない判断をグラフに載せる方法は、まだ人に頼っています。

次に読む

ここまでの章は、どれも「文脈に入れる前に、何を選ぶか」の話でした。グラフで選ぶにしても、ベクトルで選ぶにしても、選び方で外します。では、選ばずに全部入れたらどうなるか。2024年に100万トークンの文脈が出て、その問いが現実になりました。コンテキストウィンドウ100万でもRAGが残る理由に進んでください。

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